2017年 12月 16日
H29/12/10 東総 |
とうとう年末が近づいてきましたね。皆さんは年越しの準備をもう始めていますか?
爽やかに新年を迎えるために、今年のことは今年のうちに片づけてしまいましょう!
さて新年といえば、みなさんは当然初詣に行きますよね。神社に行って新年の祈願をするわけですが、皆さんはちゃんと自分の参内している神社のことを理解していますか?特にご神体が何かを知っていますか?
実は神社と祭神に面白い関係があるものがあり、これを知ればあなたも近くの神社について詳しく知りたくなることでしょう!
三重県に産田神社という神社があります。この神社の祭神は伊邪那美と軻遇突智であり、ご利益は安産、子授けとされています。
日本神話を少し知っている人なら、このご利益の根拠が二神が親子であるからだと気づくはずです。しかし、この話はそう単純ではありません。なぜなら日本神話において、伊邪那美は火神である軻遇突智を産んでしまったがために火傷で亡くなり、軻遇突智もその咎により父である伊邪那岐に斬殺されてしまうからです。そんな話を聞いて「安産」がご利益とはあんまりだ、と皆さん思うはずです。
また秋葉神社や愛宕神社もまた火の神を祭神としており、そのご利益は火伏となっています。しかしここでも、この火の神は上記の例に倣って斬殺されてしまいます。
このように祭神とご利益に矛盾があるのはなぜなのでしょうか?
そこには、害悪となるものを反転させ守護とする思想があるのです。害悪となる程強い神性を逆手にとって害悪から身を守る、まさに毒を以て毒を制すというわけです。(当然、そこには根本が関係しているのだから祭っても大丈夫だろ、という日本人特有のゆるゆる宗教観もあるのでしょうが)
このような例な何も特別なことはなく、子供の名前を付ける際にも用いられます。例えば、平安時代には「屎麻呂」という名前の人がいたそうですし、アイヌの民は幼少期にのみ、子の名前に「オソマ(大和言葉で大便の意)」とつけたりするらしいです。
子供の死亡率が高かった古代では、我が子を守りたい一心で、汚らわしい名前をつけることで、悪神や妖怪が子どもに近づかないようにしたのでしょう。
現代ではキラキラネームという名前が社会問題となっています。中には「膀胱」などという名前を付けようとする親もいるとか。
しかし考えて欲しいのは、そのような名前の人が居たとしても、もしかしたら親御さんはわが子の健康を思うあまりに、上記のような理由で名前を付けたのかもしれないので、決して「うわぁ(ドン引き)」とかせずに優しく接してあげるべきだということです。
そんなわけで本日は東京大学にやってまいりました!
そして見よ!勇敢なる弁士の向こう側を!
聳え立つ東京大学の象徴、安田講堂で本日弁論を執り行うのは、原田拓実(情コミ2)です!
ところで、皆様に悲しいお知らせがあります。それは会場が国の記念物に指定されているために内部の写真が撮れなかった、ということです。
ですので、今回はなんとなく構内をイメージしながら脳内補完してください
↑(苦し紛れの銀杏)
本大会において弁士は、対話の重要性を説きました。社会が緊密化していくとともに寛容性が失われている昨今、どのように相手と距離をとればいいのか分からなくなっている人が多いと分析した弁士は、対話によってのみそれが果たされうると述べました。
y
↑最後の調整を行う弁士と演練
原田弁士の成長は一定で張りつめており、学者気質の彼らしい弁論であるといえました。基本的には価値弁論であり、その考えがどれほど聴衆にとって目新しく、また納得できるものであるかが、評価を分けるポイントになろうかと思います。
また、今回の大会は全大学の弁士の質が一様に高く、審査員が積極的に質問を行うなどとても白熱したものとなりました!
結果はーー
惜しくも入賞を逃しました。
では、大会を終えての弁士の感想をどうぞ。
「弁論はしんどい。大体一か月前から始まる弁論執筆から演練、弁論大会本番までを
振り返って、真っ先に口を吐いた感想はこれでした。本番が近づいてきても自分が何を言いたいのか分からず、完成の糸口はむしろ遠のいていくような感覚でした。しかし、改めて振り返って思うことは、弁論をやって良かった、という事です。自分の弱さと向き合うことが出来ました。」
原田弁士、お疲れさまでした!
また、納会前としては演練の仕事はこれで完了となります。
まだ福沢杯が残っていますが、演練の史芩芩および演練補佐佐野、前田の三名、長らくお疲れさまでした!
【今日の良い言葉】
あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように
祈っただろう
あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう
あなたは言わなくても
分かってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたら
一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と
わたしは 伝えただろう
たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい
そして わたしたちは 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを
明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから
微笑みや 抱擁や キスをするための
ほんのちょっとの時間を
どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと
だから 今日
あなたの大切な人たちを
しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも
いつまでも 大切な存在だということを
そっと伝えよう
「ごめんね」や「許して」、
「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう そうすれば
もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから
これは、アメリカ人の女性が、10歳の息子を亡くし、
その悲しみの思いを綴った詩です。
この詩が9.11同時多発テロの追悼集会で朗読され、
とても大きな反響を呼び、瞬く間に世界中に拡散されました。
(参考:サンクチュアリ文庫特設ホームページ)
たった一言を言いそびれたために、それが相手に永遠に届かなくなってしまう。
悔やんでも悔やみきれない苦しさ。
貴方が誰かに伝えられなかった一言は、悲しみの海となって貴方の心に横たわり、
誰かが貴方に伝えられなかった一言は、もう二度と開かない檻となって貴方の心を縛ります。
それは失った人にしか分かり得ない感情。
しかし、私たちは、たった一言を伝え、伝えられる喜びを知っています。
貴方が誰かを思いやり、愛おしむその一言を、どうか惜しまないでください。
爽やかに新年を迎えるために、今年のことは今年のうちに片づけてしまいましょう!
さて新年といえば、みなさんは当然初詣に行きますよね。神社に行って新年の祈願をするわけですが、皆さんはちゃんと自分の参内している神社のことを理解していますか?特にご神体が何かを知っていますか?
実は神社と祭神に面白い関係があるものがあり、これを知ればあなたも近くの神社について詳しく知りたくなることでしょう!
三重県に産田神社という神社があります。この神社の祭神は伊邪那美と軻遇突智であり、ご利益は安産、子授けとされています。
日本神話を少し知っている人なら、このご利益の根拠が二神が親子であるからだと気づくはずです。しかし、この話はそう単純ではありません。なぜなら日本神話において、伊邪那美は火神である軻遇突智を産んでしまったがために火傷で亡くなり、軻遇突智もその咎により父である伊邪那岐に斬殺されてしまうからです。そんな話を聞いて「安産」がご利益とはあんまりだ、と皆さん思うはずです。
また秋葉神社や愛宕神社もまた火の神を祭神としており、そのご利益は火伏となっています。しかしここでも、この火の神は上記の例に倣って斬殺されてしまいます。
このように祭神とご利益に矛盾があるのはなぜなのでしょうか?
そこには、害悪となるものを反転させ守護とする思想があるのです。害悪となる程強い神性を逆手にとって害悪から身を守る、まさに毒を以て毒を制すというわけです。(当然、そこには根本が関係しているのだから祭っても大丈夫だろ、という日本人特有のゆるゆる宗教観もあるのでしょうが)
このような例な何も特別なことはなく、子供の名前を付ける際にも用いられます。例えば、平安時代には「屎麻呂」という名前の人がいたそうですし、アイヌの民は幼少期にのみ、子の名前に「オソマ(大和言葉で大便の意)」とつけたりするらしいです。
子供の死亡率が高かった古代では、我が子を守りたい一心で、汚らわしい名前をつけることで、悪神や妖怪が子どもに近づかないようにしたのでしょう。
現代ではキラキラネームという名前が社会問題となっています。中には「膀胱」などという名前を付けようとする親もいるとか。
しかし考えて欲しいのは、そのような名前の人が居たとしても、もしかしたら親御さんはわが子の健康を思うあまりに、上記のような理由で名前を付けたのかもしれないので、決して「うわぁ(ドン引き)」とかせずに優しく接してあげるべきだということです。
そんなわけで本日は東京大学にやってまいりました!
聳え立つ東京大学の象徴、安田講堂で本日弁論を執り行うのは、原田拓実(情コミ2)です!
ところで、皆様に悲しいお知らせがあります。それは会場が国の記念物に指定されているために内部の写真が撮れなかった、ということです。
ですので、今回はなんとなく構内をイメージしながら脳内補完してください
本大会において弁士は、対話の重要性を説きました。社会が緊密化していくとともに寛容性が失われている昨今、どのように相手と距離をとればいいのか分からなくなっている人が多いと分析した弁士は、対話によってのみそれが果たされうると述べました。
↑最後の調整を行う弁士と演練
原田弁士の成長は一定で張りつめており、学者気質の彼らしい弁論であるといえました。基本的には価値弁論であり、その考えがどれほど聴衆にとって目新しく、また納得できるものであるかが、評価を分けるポイントになろうかと思います。
また、今回の大会は全大学の弁士の質が一様に高く、審査員が積極的に質問を行うなどとても白熱したものとなりました!
結果はーー
惜しくも入賞を逃しました。
では、大会を終えての弁士の感想をどうぞ。
「弁論はしんどい。大体一か月前から始まる弁論執筆から演練、弁論大会本番までを
振り返って、真っ先に口を吐いた感想はこれでした。本番が近づいてきても自分が何を言いたいのか分からず、完成の糸口はむしろ遠のいていくような感覚でした。しかし、改めて振り返って思うことは、弁論をやって良かった、という事です。自分の弱さと向き合うことが出来ました。」
原田弁士、お疲れさまでした!
また、納会前としては演練の仕事はこれで完了となります。
まだ福沢杯が残っていますが、演練の史芩芩および演練補佐佐野、前田の三名、長らくお疲れさまでした!
【今日の良い言葉】
あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように
祈っただろう
あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう
あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう
あなたは言わなくても
分かってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたら
一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と
わたしは 伝えただろう
たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい
そして わたしたちは 忘れないようにしたい
若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを
明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから
微笑みや 抱擁や キスをするための
ほんのちょっとの時間を
どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと
だから 今日
あなたの大切な人たちを
しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも
いつまでも 大切な存在だということを
そっと伝えよう
「ごめんね」や「許して」、
「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう そうすれば
もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから
これは、アメリカ人の女性が、10歳の息子を亡くし、
その悲しみの思いを綴った詩です。
この詩が9.11同時多発テロの追悼集会で朗読され、
とても大きな反響を呼び、瞬く間に世界中に拡散されました。
(参考:サンクチュアリ文庫特設ホームページ)
たった一言を言いそびれたために、それが相手に永遠に届かなくなってしまう。
悔やんでも悔やみきれない苦しさ。
貴方が誰かに伝えられなかった一言は、悲しみの海となって貴方の心に横たわり、
誰かが貴方に伝えられなかった一言は、もう二度と開かない檻となって貴方の心を縛ります。
それは失った人にしか分かり得ない感情。
しかし、私たちは、たった一言を伝え、伝えられる喜びを知っています。
貴方が誰かを思いやり、愛おしむその一言を、どうか惜しまないでください。
by yuben2012
| 2017-12-16 04:08
| 弁論大会