不適合家であるために |
第3回國學院大學学長杯争奪全国学生弁論大会
生方遥斗(情コミ3)「不適合家であるために」
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2022年 10月 13日
第3回國學院大學学長杯争奪全国学生弁論大会生方遥斗(情コミ3)「不適合家であるために」 不適合家であるために 何をそんなに期待しているんですか? 弁論なんてものに。 まして私は中学不登校、高校中退。正真正銘の社会不適合者......そんな私に何を期待できるんでしょう。 雄弁部に入ったばかりの頃は、私も期待に胸を膨らませていました。社会に適合できなかったからこそ良い弁論ができるのだと。 しかし私がこの界隈に抱いていた期待は、今思えば空想的すぎたのかもしれません。総理大臣からテロリストまで、良くも悪くも時代を変えた人々を輩出してきた弁論界隈は、自らの手で新たな時代の幕を開けんとする若者たちで溢れていると思っていたのです。いや、今でも信じています。ここにいる皆さんはそういう志を秘めていると。だからここに立っているんです。 本弁論の目的は、弁論界隈をさらに熱い空間に変えることです。ここにいる私たちが、新たな時代の幕を開け、切り拓く、先駆者であってほしい。 しかし逆に言うと、私は弁論界隈の現状がその理想から遠ざかっているように感じているわけです。弁論大会も、何か物足りない。どこかで見たことがあるような問題意識と、どこかで聞いたことがあるような解決策......。「この弁論をここでする意味はあったのだろうか」と思わされる弁論すらある。こんな場所で説得活動を行うより、適切な政治家に手紙でも送ったほうが実現に近づきそうな、よくできた政策提言。聞かされた聴衆は重箱の隅をつつくか、「そっすね」で終わるか、良くても「早く偉い人に届けて」と言われるだけですよ。 私が夢に見た熱い議論は、こんなものじゃなかった。凝り固まった思考を解きほぐす全く新しい視点だとか、「それは本当に問題なのか」と議論が起こるほど斬新な問題提起だとか、大胆な想像力を持ってラディカルな社会変革を構想するとか、そんな弁論を私は求めていた。それなのに現状ほとんどの弁論は、既存の価値観の枠内で、よく言えば手堅く、悪く言えば窮屈にまとめられている。とても新たな時代を開こうという気概は感じられない。だから弁士と聴衆の間に、熱い議論も生じないのです。 では、なぜそのような窮屈な弁論ばかりになっているのか。 原因はいくつか考えられますが、なんといっても一番大きいのは、弁論大会において、手堅くまとめられた弁論のほうが勝ちやすいことでしょう。この大会の審査基準をみても、「弁士の主張が一般的な価値観から逸脱していないか」とか「政策に現実性があるか」とか、手堅くまとめることを推奨しているように受け取れる文言がある。「独自性があるか」も評価基準に入っていますが、それなりの独自性を出しつつ手堅くまとめられたものを求めているだけじゃないでしょうか。 考えてみてください。「格差是正のために家族を解体して国家に子育てさせるべきだ」とか、あるいは逆に、「格差による苦しみを緩和するためにこそ階級制度を復活させるべきだ」とか、そういう政策を訴える弁論の現実性はどう評価されるのでしょう。もしくは、朝に弱い夜型人間は社会的差別を受けているのではないかという新しい問題提起はどうでしょう。どれも議論の盛り上がりそうな新しい視点を提示できそうですが、現実性とか一般的な価値観からの逸脱という観点から見ると、なんだか減点されそうに思えます。やはり無難にまとめられそうなテーマを選んだほうが勝ちやすそうです。それゆえ、大会に出てくるのは窮屈な弁論ばかりになってしまう。今の弁論界隈で起こっているのはこういう事態じゃないでしょうか。 これはとても深刻な問題です。というのは、この現状は逆に言えば、大胆な主張を展開してみせる人が評価されにくい環境になっているということだからです。新しい視点を提示できるような人でも、手堅くまとめる力がなければ、なかなか日の目を浴びることはできない。これでは独創的な学生が離れてしまう。窮屈な弁論ばかりになれば新たな時代を切り拓こうとする人はますます離れてしまう。それはこの界隈にとって深刻な損失でしょう。多種多様な理念を持つ人々が熱く議論を交わし切磋琢磨し合えるところに、この弁論界隈の意義があるのですから! 他にこのような空間がありますか。様々な人と繋がれそうに思われたネットの世界ですら、エコーチェンバーやらフィルターバブルやらで、偏狭な議論空間ばかり。この弁論界隈は、根底からまったく自分と異なる考えと出会い、そしてその持ち主と議論までできるという、今この国に必要な公共空間なんです。ですから既存の価値観の内側でまとめられた弁論ばかりになってはいけないんですよ。そもそも私たち学生が、既存の枠組みから出ることを恐れて、新たな時代の幕を開けようとしないのなら、いったい誰が未来を創っていくのでしょうか。 そこで私は、既存の価値観の外へ出ていこうとするような弁論が評価される大会をつくるための、一つのアイデアを提案します。 ずばりそのアイデアとは、弁論を「幕開け弁論」と「幕引き弁論」に分け、それぞれのための大会を作ることです。詳しく説明しましょう。 そもそも従来の弁論大会にはやはり無理があったと思うのです。一口に弁論といっても、弁士の伝えたいことは様々。今すぐに実現可能な政策を訴えたい人もいれば、100 年後の未来を見据えた社会変革プランを打ち出したい人だっている。今すでに「社会問題」として広く知られている問題の解決策を提案したい人もいれば、まだ一般に問題と認識されていないようなことを「問題として知らしめる」ために弁論する人もいる。 明確に二分できるものではありませんが、ざっくり言えばこれらは「既存の議論の幕を引こうとするもの」と「新しい議論の幕を開けようとするもの」に分けられます。 幕引きの方は、できる限り議論の余地のないように自分の考えを展開して、聴衆から異論反論疑問が起こらないようにします。反対勢力を叩きのめすのでも、あるいは優れた妥協策を提案するのでも、どちらにせよ、そこで目指されているのは議論の終焉です。幕引き弁論にとっては、聴衆を黙らせ、議論を終焉させることこそが説得の成功だからです。 それに対して幕開け弁論は、聴衆に言葉を持たせ、新しい議論を開くことを目指します。既存の枠組みを打ち破る新しい視点の提示だとか、新しい問題提起、あるいは壮大な社会変革プランを示すことなどによって、聴衆の凝り固まった思考を解きほぐし、新たな議論を喚起するのです。 幕開け弁論と幕引き弁論が並べられたとき、どちらも最低限論旨の一貫性があるのなら、どのように優劣をつけられるというのでしょうか。同じ基準で評価しようとするのは無理があると思いませんか。 現在頻繁に見受けられるのは、より異論反論疑問が出なかったものが、聴衆たちをうまく説得できているとして高得点を得るという事態です。しかし、説得というのはそのように聴衆を黙らせることだけを意味するのでしょうか。いや、新たな議論の幕を開けることを目的とした説得なら、異論や疑問が上がることを理由に説得の失敗とは見做せない。たとえ解決策に具体性が欠けていても、問題意識の共有に成功して議論に巻き込めたなら、立派に説得の成功というべきでしょう。具体的プランなんて、そうして起こる熱い議論の中で考えていけばいいんですから。そのため幕開け弁論の場合は、聴衆の価値観を揺るがし、新たな議論を起こせたなら、それは説得の成功なのです。 このように、幕開け弁論と幕引き弁論は、そもそも目指している「説得」の地点が異なるため、同じ基準で評価することは難しいのです。もちろん盛大に幕を開け、そして綺麗に幕を引くものを評価しようとするのもありですが、それは 10 分でやるのは困難で、整合性をとるために幕の開け方を制限することになってしまいかねません。ですから、「いかに新たな議論を喚起できているか」に最も重点を置いて評価する大会が必要なのです。幕開け弁論のための大会を作るべきなのです。 新たに創るのでも、今あるものの審査基準を変更するのでもいいでしょう。学園祭との相性がよさそうなので、東大さんの五月杯や、早稲田さんの大隈杯などは、幕開け弁論の大会になるといい気がします。またこの國學院学長杯さんが先陣を切ってくれると言ってもらえると、とてもうれしい。 この提案は、弁論界隈全体に大きな利益をもたらすものです。誤解しないでいただきたいのは、私が幕引き弁論を根絶やしにしようと訴えているわけではないことです。この界隈がより熱い空間になるためには、多様性こそ求められるべきだと考えています。弁論のあり方が多様になることで、弁論界隈の学生の幅、議論の幅が広がるでしょう。そして志のある学生たちが互いに刺激を与え合い、弁論界隈、ひいてはこの国がさらに活気あふれるものになってほしい。そのために、弁論大会も多様化していくべきなのです。 さて、メインの主張は以上ですが、最後に聴衆の中にいる弁論家の同志たちに、幕開け弁論を書くための一つのヒントを授けたいと思います。幕開け弁論の一番の難しさは、その性質上、既存の価値観の外に出なければならないことでしょう。当然、自分が間違っている可能性のほうが高くなります。窮屈な弁論が多い理由の一つには、そのリスクを冒すことや、批判への恐怖もあるのかもしれません。しかし弁論家たるもの、批判を恐れて口を閉ざすのではなく、勇気をもって口を開け、批判を食らって成長すべきではないですか。それに、外に出ることでしか見えてこないものもあります。私も社会に適合できず引きこもっていた日々の中で、色々と思索が深まったものです。 みなさんも、不適合であること、今の価値観の外側に出ることを、恐れないでください。悪いレッテルとしての「不適合者」ではなく、あえて不適合に留まることで社会の新たな可能性を開こうとしているのだという誇りを持った「不適合家」になりましょう。 一般大学生に冷ややかな目で見られるどころか、最近は宗教団体と間違われることすらある、こんな界隈に迷い込んでしまったすべての社会不適合家に、期待する。 ご清聴ありがとうございました。
by yuben2012
| 2022-10-13 18:40
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