2023年 06月 04日
第26回紫紺杯争奪全国学生雄弁大会「雄辯道」 |
学生雄辯界は130年余りもの間、理想社会の実現を掲げ、この国の諸問題に対しその言葉を紡ぎ、弁論をもって声を上げ続けてきた。古くは、足尾銅山鉱毒事件の際にその被害者を救済せんと開かれた演説会や、自由民権運動の勃興を受けての演説会、日華の親善を掲げた中国遊説、世界遊説など、その時代時代の社会問題に対し、真摯に取り組んできた。そして今も弁論大会という形で先人が紡いできた学生の声で社会を動かす場が残っています。
なんと素晴らしい文化でしょうか。弁論大会では、弁士はその雄弁を振るい、聴衆は弁士の雄姿に真摯に向き合い、ともに理想社会の実現を目指します。ふと、我が弁論人生4年間で重んじてきたことが何だったか、と振り返ってみると、「大学という空間において、雄弁部という環境において社会に存する諸問題を学ぶ。そして今救わねばならぬ人々を、今改めねばならぬことを、弁舌という形で訴え、少しでも社会をより良いものへとしていく」ことでした。それは今もずっと私の至上命題として刻まれております。
しかし、昨今の弁論というものはどこか空虚ではないでしょうか。というのも、弁士が聴衆を動かすことを目的としているのではなく、あくまで問題意識に対応している解決策を提言するだけの、政策立案コンテストのような空虚な弁論が跋扈していると感じられるのです。そんな、どこか聴衆を置いてけぼりにした弁論を聞いたところで、聴衆はこれからどう行動すればいいのかわからないじゃないですか。そこに座って私の弁論を聞いているあなたも、あなたも、あなたも、そう感じたことはあるんじゃないですか?
確かに、弁士は問題に対しあらん限りの力を使い勉強、研究に取り組み、その問題に対する効果的な解決策を練って、弁を振るっています。一方聴衆も、弁士の主張にしっかりと耳を傾け議論をしているように見えます。でも、何かが違う気がするのです。
この空虚さの話になると、わたしは、よく二つの原因を耳にするのです。一つは、聴衆が弁論界隈の人間だけになってしまったからというものです。弁論華やかなりし頃は、熱弁をふるう弁士に、これまた熱く心を傾ける聴衆があった。これ自体はこんにちでも変わらない景色がみられます。しかし、昨今の弁論大会で見かける人はいつも決まった人、いわば、身内ばかりとなりました。一般の聴衆がほとんどいなくなり、それはまさしく弁論の練習試合のよう。全く以ってその通り! 内輪で行われ、内輪で完結する、そのようなものになっていることは確かです。
もう一つは、SNSをはじめとするインターネットツールの発達により、一般に大量の情報がもたらされるようになったから、というものです。弁士が弁論するまでもなく、人々は情報を容易に手に入れられ、弁士が示すものはそれに近いことは大抵の場合、誰かが言っており、メディアという面での弁論の価値は確かに下がっているといえます。
しかしながら、これらが昨今の弁論大会を空虚なものにしている真の原因なのでしょうか。断じて否である!
私は現状の弁士、そして、弁論にかかわっているすべての人、この会場にいる弁論界隈のあなたたちの弁論というものの捉え方に真の原因があると考える。私は、入学してこのかた、多くの弁論に触れる度、それがあたかもただの政策コンテスト、ビジネスコンテストのように感じることが多かった。いってしまえば、「僕の考えた最強の解決策(笑)」を評価してもらうための場でしかなくなっているのだ!
SNSやインターネットが発達し、弁士の述べる政策は大抵しっかりと調べれば出てきます。昨今のよく見る弁論は調べれば知れるものを紹介しているに過ぎないんですよ。でも、弁論の真の価値はその先にあるのではないですか? 弁論大会の会場は国会ではないし、地方議会でもない。この場で「僕の考えた最強の政策(笑)」「僕の調べた素晴らしい政策(笑)」を発表し、審査員に評価され、仮に優勝したとして、その最強の解決策は実現するわけではありませんよ。そんなものを訴える弁論になんの意味があるんですか? 弁士の自己承認欲求を満たすことと、作った弁論が評価されたことによる達成感を得られるだけじゃないですか?
「確かに弁士のおっしゃる通りです」「いい解決策ですね」
確かに弁論大会を「スポーツ」として考えるならそれでいいのでしょう。でもそんな弁論を繁茂させたって、何一つとして社会は変えられません。目の前の聴衆を説得し、心をつかみ、理想社会の実現のために一歩二歩三歩と歩みださせることができる、そんな弁論ができないのでは弁論界隈の存在意義なんてない!
ところで本大会の大会趣意には、「弁論が意味を持つのは、その先に表出する行動のみ。実践をもって初めて弁論というものは完成する」とあります。本大会に限らず、今年度に開催された諸大会においても、弁論大会を通じて理想社会の実現に寄与すること、が重要視されていました。ちょっとご紹介しましょうか?
春秋杯大会趣意では、「弁士はその熱意を弁論に込めて、真摯に聴衆に訴えかけてください」、大隈杯大会趣意では、『「能弁家や達弁家」、「事実の叙述者や思想の叙述者」ではなく、「宜しく興論を喚起し、一世も動かすような」「真の雄弁家」を目指していただきたい』これは雄弁会さんの結成趣意でもありますね。福沢杯大会趣意では、「心から社会変革を希求する者に手段として用いられる“弁論術”は、弁士の情熱と理想に基づいた、緻密に分析された問題意識と、真剣に考え抜かれた解決策、そして目の前の聴衆に寄り添う心である」とあります。
つまり、この紫紺杯のみならず、目の前の聴衆に訴えかけ、理想社会実現を目指すことの重要性は各部会の皆様も理解しているはずなんです。我々学生雄辯界は弁論を「スポーツ」として捉えているわけないはずなんですよ! で、あれば、やはり昨今の弁士は弁論の捉え方を見直すべきです。
ここまで昨今の弁論が空虚に感じられる原因を弁士に求めてきましたが、その空虚さの原因は実は聴衆にもあります。
先で述べたように、弁論は弁士の理想社会を聴衆に訴え、聴衆の心を動かすことでその実現を目指すものです。しかし、弁士の理想社会の実現には聴衆も弁論の捉え方を見直す必要があるのです。昨今の弁論大会を見ていると、弁論がその大会で完結してしまっているように見受けられます。聴衆は「あの解決策がよかった」「いい声調だった」「弁論大会楽しい」これで終わってしまっているように見えてなりません。
でも皆さん、思い出してみてください。元来弁論が何のために行われていたのかを。何のために弁論を聞きに来ていたのかを。この根本ともいえる問いの答えは皆さんもご存知の通り、デモステネスに始まる古代ギリシャ、そしてローマの時代に遡ります。
我が雄部辯の口調練習文には、こういった一節があります。
“ローマ時代における一斉の英傑シーザーを暗殺したるブルータスがギリシャの街頭に立って訴えたる時、彼の大雄弁に魅せられたる聴衆はしばし歓呼の声をあげ、ブルータスのシーザーを暗殺したる合法性を肯定したのであります。その瞬間立ち上がったアントニオがシーザーの偉業をたたえつつ、彼の暗殺行為を糾弾したる時、彼の至誠あふれる奇代の大雄弁はたちまちにしてローマ市民の考え方を一変し、ついに、ブルータスを倒すの挙にいでしめたのであります。”
弁論というものは弁士のその雄弁をもって正当性を説き、聴衆を説得し、協力してくれる仲間を増やすことで、政治的な社会変革を行うことが目的とされてきたといえます。これは古代に限った話ではありません。我々学生雄辯界の先人たちもその目的のもとに弁論を用いてきました。多くの弁論団体の起源となった足尾銅山鉱毒事件では、鉱毒被害者の救済のために、抗議活動を演説会という形で行ったことで、多くの人々にその深刻性を認識させ、世論の形成を成し遂げました。
こういった話をすると、当然、それは昔の話じゃないか、という意見も出るかと思います。確かに、今はSNSで自分の意見を主張することは簡単ですし、その方がより多くの人の目にも触れます。発信力のある人がひとたびツイートをしたら、そこには無数の賛否両論の意見が集まります。実際に私もこんなに効率的なツールをみて「なんて楽しいんだ」「なんて有用なんだ」と思ってしまいます。
でも、だからと言って私は弁論の可能性を否定したくないんです! 弁論には、SNSにはないにはないものがあるじゃないですか。ディベートにもないものがあるじゃないですか。
それは何か。弁士の、そして聴衆の「熱意」です。弁士の熱意、聴衆の熱意、この二つによって、弁論は人々を動かし、その理想社会を実現するにたる手段となるのです。
さて、この紫紺杯の弁士順。なんと!「辞達するのみ」という演題の方が前にも後ろにもいるではありませんか!「辞達するのみ」という言葉の解説はお二方に任せるとして、この名を冠する中央大学辞達学会において平成初期に「訓練本質説」なる言説が唱えられました。訓練本質説とは、弁論する意味を自己研鑽に求める考え方です。この学生時代に弁論を行うことで研鑽を積み、近い将来、社会という大海に漕ぎ出してから理想社会を実現できる人材を輩出する。
これはこれで素晴らしい考え方だと思いますが、やはり私は「今訴える必要性」を大切にしたい。自己研鑽では、今訴える内容は、将来の自分に影響を及ぼすが、今現在の社会に対しては影響を及ぼさないのである。今苦しんでいる人の救済のために弁論をして、天下国家を論じて、でも今の社会には影響を及ぼさない。
なんとも馬鹿らしい話ではないでしょうか。我々が弁論を行い、自己研鑽を積み、将来社会変革ができる人材となったとして、我々は語っているのは「今」じゃないですか。仮に1年生だとして、社会に出るのは4年後です。その時あなたが語った問題はさらに深刻になっているかもしれないんです。あなたが助けたかった人たちは、もっと、もっと、、苦しんでいるかもしれないんです。
「今」解決しなくちゃいけない問題があるんだ!
「今」助けなければならない人々がいるんだ!
「今」変えなくちゃいけない社会があるんだ!
だから、私たちは訴えるんです。その人々を救うために! そのためには、やはり弁士、聴衆の弁論観を変える必要があります。昨今の弁論に欠けているのは、聴衆への訴えかけではないだろうか。
型にはまった解決策を提示するだけの弁論では、その良し悪しを比べるだけの空虚な弁論でしかなくなってしまう。弁士には、常に聴衆のことを意識してほしい。聴衆に弁論界隈の人間ばかりだから何なんですか? 一般聴衆と弁論界隈という区別を勝手にしてしまっているのはあなたたちでしょう!そこにいるのはただただ聴衆です。あなたの理想社会は、解決策の提示だけでは実現しない。あなたのその弁舌をもって、聴衆を動かすことで初めて理想社会実現の一歩を歩み始めるのです。
聴衆も弁論との向き合い方を見直してほしい。聴衆は単なる観客ではないのです。弁士とともに理想社会の実現を目指す立派な当事者です。だからこそ、聴衆は野次と質疑によって弁士の理想社会と真剣に向き合っているのです。聴衆は弁論を弁論大会で完結させてはならない。弁論大会が終わった後も、その弁論について議論を続けてほしい。その理想社会の実現を本気で願ったなら、そのために何か少しでも行動に移してほしい。「弁論に携わっている我々学生雄辯界が「今」苦しんでいる人のために声を挙げ、社会を少しずつでも変えていけること」、「学生雄辯界が弁士の理想社会が実現されうる場となること」それが私の願いです。私はこの学生雄辯界を信じています。この界隈で切磋琢磨をしているあなた方もそうであってほしい。我々ならきっとできるはずです。130年余りもの間、雄辯を振るってきた先輩方の血がしっかりと受け継がれているのですから。
天野先輩、最後のお言葉をお借りします。
『この場にいる全ての聴衆に、そして未来の弁士たちに期待する。』
by yuben2012
| 2023-06-04 01:01
| 弁論大会

